瞬きを忘れて

関ジャニ∞/SixTONES/日記

生きるとは?死ぬとは?

日付が変わったので昨日の話になる。お昼過ぎに梅田の高いビルの上から女性が飛び降り自殺を図って亡くなったそうだ。ゴールデンウィークということもありたくさんの人がいるところで彼女は飛んだ。すぐにツイッターのトレンドに入って私はそのことを知った。

 

拡散される動画や写真。不謹慎だ、不快になったなどのコメントがどんどん流れていく。彼女はどんな気持ちで飛び降りたのだろう。それで楽になれたのだろうか。後悔はしたのか。私はぐるぐる考えているうちに喉が詰まるような感覚に陥った。急いで抗不安薬のリーゼを飲んだ。

 

私は飛び降りた彼女のことを何も知らない。たまたまSNSに上げられた動画を見て昨日、大勢の人が見る中で自殺した女性が1人いたことを知っただけだ。ここで何を書いたって机上の空論に過ぎない。

 

でもなぜだか考えずにはいられない。死にたくなるほど苦しんだのだろうか、彼女の中で何かを解決する方法が自殺しかなかったのだろうかとか。後ろ向きに飛んだのは怖かったからかな、下にはたくさんの人がスマホを自分に向けていてそちらに飛び込みたくはなかったからかな。それともそんなに上からだったらそんな姿も見えないのかな。もしかしたら怖いとかいう感情の全く逆の気持ちだったのかな。警察官の説得が50分ほどあったようなので訳も分からず飛んだというよりも、迷いがあったのかもしれないな。勇気を振り絞って飛んだのかな。私はそう思って泣いた。

 

動画や写真を撮ってSNSに投稿した人たちはどんな気持ちなのだろう。珍しいものが見られたことや、再生数やRTやいいねがどんどん増えていくのが嬉しいと思うのだろうか。興味本位で投稿したらたくさんの反応を得られて興味があるのは自分だけじゃなかったと安心するのだろうか。

 

どちらも自分がどちらかの立場に立たなければその気持ちは分からないし必ずしも同じ気持ちになるわけではない。全て寸分の狂いもなく同じ気持ちになることなどない。人の気持ちなんてわかることはない。

 

でも私は考えてしまう。自殺したのが「若い女性」だからだろうか。はたまた自分が精神的な部分において現在治療中で、もしかしたらいつか彼女のような立場に立つ時が来るかもしれないことを少しでも考えたことがあるからだろうか。ちなみに希死念慮はない。精神疾患は自殺の要因として特に重要といわれているため、もしかしたら自分もいつか死にたくなるのかなと考えた程度である。

 

死ぬことを考えるということは同時に生きることを意識することになる。私は自分が患者の立場になってから、自分にとって生きるってどういうことなのか?私とは何なのか?と考えることが多くなった。暇だからだろうか。理由は何にせよ、自分の人生や生き方や自分って一体何者なのかということをよく考えるようになった最近の私にとってこの出来事は深く心に刺さった。

 

それと同時に看護師という立場で、死ぬことを考えている人と対峙した時にどうしたらいいのか考えてしまう。最近、妊産褥婦のメンタルヘルスについて注目されていて、精神疾患の既往があるかのチェック、2週間健診の導入(こまめな健診で介入を増やす)やエジンバラ問診票の活用(産後うつのスクリーニング)など実際働いている中でもメンタルヘルスに関して注意深く関わらなければならないと意識することが多い。実際、私みたいなものでも希死念慮のある患者さんと関わったこともあった。そういうこともあってか個人的にこれは他人事ではないという感覚がすごくある。

 

そんな風に休職中の今は仕事のことは考えないでおこうって思っていても考えてしまう自分にうんざりしてしまうけれど、ちゃんと考えるべき時に考えられる大人になりたいとも思う。もういい大人の年齢なのだけれども。

 

勢いに任せて、感情に任せてブログを書き始めたのでこの記事をどう終わらせたらいいのか分からなくなってしまった。毎日仕事で心も体もいっぱいいっぱいだった以前の自分にはなかった色んなアンテナを張って、それから色んなことを考えて、休むときはきちんと休んで、いつの日か病状が回復して現場に戻った時に自分の体験が活かせられるようにしておきたいなと強く思った。

 

亡くなった方のご冥福をお祈りいたします。